その6.ニッカウヰスキー誕生

 1934年(昭和9年)7月、ニッカの前身である大日本果汁株式会社が設立された。資本金は10万円。加賀正太郎と芝川又四郎の二人で7万円、竹鶴政孝は2万円、柳沢保恵が1万円を出資し竹鶴が代表取締役専務に就任した。
 大阪で証券会社を営む加賀と竹鶴夫婦の住まい(大阪帝塚山)の地主でもある芝川は伴に名の知れた実業家あったが、いずれも妻子がリタに英語やピアノの指導を受けていた縁から政孝のウイスキー造りへの熱い思いを幾度となく聴かされ理解者となっていた。もう一人の柳沢は、竹鶴が英国に渡った際に知り合った伯爵で、余市の工場用地手当ての際に骨を折った人である。設立の翌年、資本金を20万円に増資したものの、寿屋山崎工場の建設費200万円の僅か十分の一の資金で本格的ウイスキーを造ること事など到底無理と考えていた株主たちは、リンゴジュースの他はせいぜいブランディ製造止まりと考えていた。昭和9年4月単身余市に渡った竹鶴は早速リンゴジュースの製造に取り掛かった。秋には近隣の農家からリンゴを満載した馬車が列をなし工場の敷地はリンゴで埋め尽くされた。余市は早くからニシン漁で栄えた町であったが、このころ不漁が続き昭和10年にはまったく獲れなくなってしまった。そんな中でリンゴジュース会社の創業は消えかけた蝋燭に火をともす経済効果を余市にもたらした。ところで竹鶴は寿屋横浜工場時代にリンゴジュース製造を経験していたとはいえ、新会社の低い知名度と大消費地の首都圏から遠く離れた不利も重なり会社はスタートから大きな赤字を背負い込んでいった。しかし本格的ウイスキー造りを内に秘めた竹鶴は周囲の心配をよそに夢の実現に向けて邁進して行った。そんな中昭和10年(1935年)9月、リタは5歳のリマを伴って余市の駅に降り立ち従業員総出の出迎えを受けた。青い目の西洋人と始めて対面した人々は、巧みな関西弁で挨拶するリタに驚き畏敬の念さえ覚えたことだろう。リタはスコットランドの風土に良く似た余市がすっかり気に入り、政孝やリマと一緒にスキーを楽しんだ写真を添える等して家族や町の様子をスコットランドの母に頻繁に伝えていた。ところで竹鶴はリタを余市に迎えたその年の暮れに蒸留用のポットスチルを余市工場に設置したが、まだ他の株主にはウイスキー造りを内緒にしていた。株主の目が届き難い北海道という地の利と、株主代表の加賀正太郎が送り込んだ目付け役の事務長がすっかり竹鶴の理解者に変身していた事も幸いし、竹鶴はウイスキー造りに専念することが出来た。この頃の日本は、不況や政治的腐敗と軍部の内部分裂などが重なり、後の大戦に繋がる激動の時代を迎えていた。また竹鶴が寿屋で仕込み眠り続けてきた原酒は「サントリーウ井スキー12年もの角びん」となって発売され洋酒市場を席巻していた。結局こうした状況下で、余市でのウイスキー造りを知った株主からも早期商品化を迫られた竹鶴は迷い抜いた末に樽詰満5年を待たずに発売を決意した。昭和15年10月、こうして「ニッカウヰスキー」第一号が発売された。リタを伴ってスコットランド留学から帰国して20年、二人の夢がついに余市で実を結んだ。一方これを迎え撃つサントリーは、後のヒット商品オールドの原型となる「サントリーオールド黒丸」を発売した。発売直前、鳥井信次郎は後継者で最愛の長男吉太郎を病気で失っていたが、竹鶴と本物のウイスキー造りを競い合うことでその悲しみを癒していたに違いない。

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