その3.リタへの思いやり

 リタの生家は、父が経営していた外科医院を兼ねていた事もあり大層立派な豪邸であった。しかし、竹鶴が初めて訪れた当時(1919年)、カウン医師の死去と終戦直後の不景気によって医療費支払い遅滞が多発し、経済的に窮地に陥ったカウン夫人は屋敷を売りに出していた。大学の友人エラの母でもあるカウン夫人が苦労されている様子を知った竹鶴が、その一助として下宿代を支払うことにしたと考えてもおかしくはない。ところで竹鶴を最初に家族に引き合わせたエラが、特別な思いを寄せていた竹鶴と姉リタとの結婚話しに嫉妬反発し、それ以降40年間リタが亡くなる前の年まで交際を断絶していたという筋書きで森瑤子の小説「望郷」(1988年学研)は構成されている。ところで学生が下宿先の娘さんと結婚するというのは良くある話であるが、国が異なる者同士である場合事は簡単に進まない。リタとの結婚に際して故郷竹原で息子の帰国を待ちわびる両親の承諾を取り付けるべく竹鶴は必至の思いで手紙を書いたというが、果たしてそこに「相手は下宿先のお嬢さんである。父親は既に死に、今は経済的にも余裕がない家庭の娘ではあるが、私はその人を心から愛している」と綴ることが出来たであろうか。今後日本でリタが背負うであろう苦労を思うとき、竹鶴はあえて裕福で健全な両親のもとで暮らす理想の女性としてリタを紹介しその後もそれを改める必要を認めなかったと見るべきであろう。
 竹鶴からリタとの結婚話を知らされた故郷の両親は驚き、早々に摂津酒造の阿部社長に相談した。その結果、阿部がグラスゴーに赴き直接竹鶴を説得することになったが、阿部が到着する前に既に二人は登記所に結婚届けを出してしまっていた(1920年1月8日)。
 結局リタの素直で奥ゆかしい人柄に触れた阿部もこの事実を受け入れ二人の結婚を祝福することとなった。この時点でリタの母親のカウン夫人はまだ認めていなかったが、末の妹のルーシーの説得が功を奏してリタの日本への旅立ち前に二人を許したのであった。
 阿部は竹鶴とリタを伴ってその年の秋に帰国した。ところで竹鶴の留学費用や滞在費一切を負担していた阿部には年頃の娘がいた。前途有望と見初め自ら送り出した竹鶴青年が帰国した暁には、娘の婿として迎え、思う存分本格的ウイスキーの製造に当たらせようと阿部が考えていたとしても不思議ではない。しかし阿部の思いは立ち消えたのである。リタを伴って帰国し摂津酒造に復職した竹鶴は2年間本場で学んだことを基に正真正銘の国産ウイスキー造りを提案し続けたが多額な投資に耐えられない、として役員会はそれを認めなかった。結局竹鶴の最大の理解者であり支援者であった阿部社長も自社の役員を説得する情熱を失ってしまっていた。1922年(大正11年)竹鶴は摂津酒造を退職した。リタとの結婚を分家という形で両親に許され、意気揚々と帰国したはずの竹鶴は僅か2年で失業の身になった。これはリタにとっても思いがけない展開であったが、気丈な彼女は近所の人に英語やピアノを教える等して失意の底にあった竹鶴を支えていた。こうしたリタの健気で生真面目な人付き合いが後に竹鶴独立の大きな後ろ盾になることをまだ二人は意識していなかった。そんな中、寿屋(現サントリー)社長の鳥井信次郎が竹鶴家を訪れた。当時鳥井はスコットランドから技師を招いて本格的なウイスキー造りに着手しようとしていたが、本場で研究と修業を積んで帰国した青年がかつて摂津酒造時代に見覚えのある竹鶴政孝であることを知り、まだ国内で誰も試みていなかったウイスキー蒸留所を建設するにあたりその責任者として雇うことを申し出たのであった。

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